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会社を始めて、色々な経験をした。はじめは収入が10万円くらいで、それから人並み程度に収入が得られるようになって、そして人並み以上の収入になってきた。そこが人生の分岐点だ。
人間、ちょっとくらいお金を持つと、そこで満足してしまう人がほとんど。中小企業の社長さんでそういう人はたくさんいる。だが、自分は「何のために仕事をするのかな」とか、「お金だけじゃないな」とか、「何で自分は生きているのかな」と、そういうことを真剣に考えるようになっていた。
事業を真剣にやっていると、いずれかの段階で「自分は社会のために何ができるのか」そんなことを考えるようになると思う。自分がそんな考えを持つようになって自分自身が変化していったのだと思う。
その頃、自分は東北の人間だから新潟を含めた東北7県に求人誌の事業を拡大していこうと考えた。新潟から始まり、岩手県まで事業拡大した。「このままいくと東北では一等賞を取れちゃうな」という感じがあった。その当時は30歳くらいだったので、かっこいい青年実業家としてもてはやされ、大いばりで、昔のネットバブルの起業家の地方版みたいな状態だった(笑)。
仕事は多少できても人間的に未熟だと大きなミスして駄目になる人が多い。当時の自分も得意になっていて、今思うと相当危なかったと思う。
若手経営者の代表としてちやほやされたりしているうちに「これでいいのかなー」とだんだん思うようになってきた。変化したいと思った。そのときに起きたのが1997年のアジア危機を受けた大不況だった。
求人誌事業は不況の影響を受けやすいものだが、1997年に業績が落ち、半年で客数が3分の1、半年で売上が半分にまでなった。本当に地獄のような局面で、正直言うと、このまま行くと会社が潰れるのではと初めて恐怖を覚えた。でも、そうなったときに、「よしっ」と本気戦闘モードのスイッチが入った。
事業所を少しは儲かっている事業所も含めて半分閉じ、大きく儲かっている事業所に経営資源を集中して収益力を上げた上で、単身東京に出た。
そして東京でインターネットの新事業を始めた。実際に本当の逆境になって、その極限になって、初めて自分は変化しようと思ったのだ。
心の中ではずっと、このまま紙媒体の求人大手の会社と同じようなことをやっていたら、田舎の一等賞は取れるけど100年経っても日本で一等賞は取れないと思っていた。そもそも人まねだけじゃ面白くない。だから、求人誌以外の新規事業を考えていた。
その少し前からインターネットは知っていて、1995年から毎年アメリカにインターネットの視察に行ったり、1996年ごろのネット人口は日本に数十万人だと思うが、全国版無料求人サイトを立ち上げる等、インターネットの事業には研究も含め、少なからず投資をしていた。そういった準備をしていたからこそ、そこで変化できた。
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